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「シグルイ」は同じテーマを描き続けており、それは作中にも明記されているよ、というお話+三重の自害の本当の理由

職場で「シグルイ」のここがよく分からんと訊かれたいくつかの疑問に、ざっくり見解を示して情報を整理しつついい機会だったので「シグルイ」は最初から最後まで同じテーマを描いているよ、あと三重ちゃんはだいぶ藤木が好きだったよよく言われている三重の自害の理由が「信じた藤木が傀儡だった事に絶望した」というのは半分正解だけどより深掘ると別の理由が見えてくるよ。というお話。「シグルイのテーマ」については去年の五月あたりにまとめようとしたままサボっていたものをこれを機にリバイバルして記事化。

 

「駿河城御前試合」原作読了済み・但しここではあくまで「シグルイ」を取り扱うため、原作描写は考慮せず。あくまで個人的にこう考えてるよ、こういう見方をしているよという考察のため結果好きに考えてればいいよレベルのあれです 重要な所はくそ長いよ。あとこのページの最後の方まで読んでからもう一度このページを読み直さないと「救う」だの「祓う」あたりの表現がわからんちんかも。読み直してもわからんかも。それではどうぞ。お前には魔王の激情を鎮める事は出来ない!!


シ  グ  ル  イ

 

出場剣士十一組二十二名。

敗北による死者八名。

相討ちによる死者六名。

射殺二名。生還六名(中二名重傷)。

 


【目次】嘘だ!いくつか訊かれた「シグルイ」の疑問点に対するバッソニャン流の見解だ!


●三重がセミの死骸集めてたのは何なの?

●牛股はどうしていくの乳首をプギュったの?

 

(以下はだいぶ重要)

●怪物三匹は伊良子・藤木・三重だと思っていたが、もしかして伊良子・いく・三重ではないか?

●三重が死に体の虎眼の前にしおらしく出てきたのに仇討ち願を届け出る心情がよくわからん

●三重の心は誰のもの?


●三重がセミの死骸集めてたのは何なの?

┗三重ちゃんのお楽しみデスカウント&傀儡8匹と真の人間1人を三重が明確に区別している表現。

 

 

<<蝉(セミ)=士(さむらい)>>

 

蝉は「死ぬこと」、ひいては儚く潔い死を美化する社会の風潮や、その社会に短く生きる「士」そのものを象徴する。あの社会における士のアイデンティティのひとつは死だ。夕雲がニヤニヤしながら見ていた蝉の死骸もおそらく7キル勲章とかそういったものと思われる。

 

虎眼流剣士たちが倒されていく最中のエピソードの題のひとつ、「蝉しぐれ」は蝉がいっせいに鳴き始めて騒がしくなったけれどすぐに止んで静かになる、まるで時雨(通り雨)のようだね。といった意味。虎眼流剣士たちが一斉に殺されていく様子を蝉しぐれと表現している。

 

三重の化粧箱の引き出しの中には蝉が8匹、雄雛(伊良子)が1人。蝉は虎眼、牛股、藤木、山崎、丸子、興津、宗像、涼の8名。伊良子は「血の通うたまことの殿御」のため蝉(士=傀儡)ではなく雄雛。蝉8匹の死の先に、雄雛にたどり着ける。三重が自らを励まし鼓舞する希望の象徴があの化粧箱。

 

 

<<もう1匹の蝉>>

 

蝉の羽化を見て三重が微笑むシーンは「三重は蝉を蔑視しているんじゃないの?おかしくない?」と感じるかもしれないが、以降のタイムラインから(正常な、曖昧ではない父)虎眼が起きた事」を三重が感じて喜んでいる事を示しており、羽化から1週間程度で虎眼が死ぬ事からも羽化した蝉(そしてこれから死ぬ蝉)=虎眼であると解釈できる。その近い死の予感まで含めて喜んでる可能性もあるが、ここでは化粧台の(蔑視対象である)蝉ではなく、新しい形「産まれなおした」虎眼に喜んでいるものとする。


「産まれなおし」というものが後ほど重要部分に関わってくるので注意。

 

以下、蝉の羽化から虎眼が死ぬまでのタイムライン

【第二十二景】

蝉の羽化・(正常な、曖昧ではない父)虎眼が起きる。

虎眼、牛股と藤木に二輪を命令。

 

2日目

(明朝)二輪

(夕刻)カラスが飛ぶ。検校屋敷への招待の手紙が届く。

 

【第二十三景】~【第二十五景】

3日目

※招待から出発・到着の時差は不明のため、最速の3日目と仮定

 

検校屋敷での虎眼VS夕雲。

(20時頃)虎眼流帰宅。

虎眼寝る。藤木が伊良子からの果たし合いの手紙(偽)を発見。

 

【第二十六景】

9日目

※冒頭より、検校屋敷での件から6日後と断定。

 

牛股による虎参り。

牛股VS蝉丸。

藤木VS友六。

虎眼VS伊良子。虎眼が死亡。

藤木が岩本家屋敷に到着。虎眼の死体の一部はカラスの贄となる


●牛股はどうしていくの乳首をプギュったの?

┗牛股、ひいては虎眼流の「母との決別」を表明する所作。

 

 

<<“藤木源之助は士の家に生まれたる者

貧農の三男である源之助はとうの昔に縊れ死んでいるのだ”>>

 

いくは虎眼の妾であり、藤木を含む虎眼流門下生たちの母のような存在でもある。第六十四景では虎眼流に入門して間もない藤木に対し、実の母のように世話をする様子や、「いく」のくれる心情的な温かさ、安らぎに体を火照らせる藤木の姿が描かれている。虎眼に拾われ貧農の家を捨てた藤木にとって、そして虎眼流にとって、虎眼は「父」であり、いくは「母」だった。

 

牛股も同様。死の間際にいくを見やって「ふく(≒いく)」と呟き半同一視されるなど、いくは牛股からも少なからず女性の象徴として見られ思慕される様子が垣間見える。ただし牛股は去勢済み、かつ虎眼先生第一主義者(先生の言う事なす事が絶対的価値観。『赤い縄』を指摘されればすぐに去勢すら行うし、虎眼のためにいくの許嫁を斬ってきた。)のため、あくまでいくに対しては「めおと」ではなく「母」としての要素を強く見ている。

つまり、いくの乳首を口に含んだあとに噛み潰す行為の意味合いは、乳を口に含むという「母と赤子の関係性」を最初に提示しておき、それを嚙み潰す事で虎眼流の母との決別をいくに伝えている。といった具合だろう。

 

虎眼のため、自ら去勢を行い、いくの許嫁を切ってきた牛股。己のセックスを奪われ、そして父(虎眼)のために守ってきた母(いく)すらも伊良子に奪われる事になった牛股。いくにはせめて虎眼流の母であって欲しかったのに、今では伊良子の女であり母になってしまった(いくは仕置後ですら「あなた様のお顔はまるでややのよう」と伊良子の母であろうとする)いくを許すことができない。

 

牛股は最期まで「いく(≒ふく)」に囚われたまま伊良子に斬られ命を落とす。牛股の「赤い縄」めおとの象徴として語られたが、また同時に切り忘れたままのへその緒の事でもあったのだろう。だが同時にそのわずかな「弱み」を残していたからこそ牛股は敗れ、また「弱み」を残していたからこそ牛股は救われることになる。


●怪物三匹は伊良子・藤木・三重だと思っていたが、もしかして伊良子・いく・三重ではないか?

┗伊良子・藤木・三重で合ってるよ!

 

 

<<いくは明確に「怪物」である。>>

 

注目するべきは「この日生まれ出でた怪物は」という部分にあり、虎眼といくは彼ら新たな怪物の「両親」であり、この時「既に」怪物なのだ。そのため『この日生まれ出でた』怪物は藤木・伊良子・三重の三匹。

 

 

<<「人」と「魔」>>

 

作中で「怪物」や「魔」「鬼」として表現された人物は忠長、虎眼藤木伊良子三重、伊達政宗、織田信長、そしていく。これに加えて題のひとつ、「槍鬼」を含めるのであれば笹原修三郎を含む。武芸や狂気、何らかの分野を極めた人物たちがこう称される。※涼が死んだ後の幽鬼オトン等、亡霊的な意味合いの強い「幽鬼」等は含めず。

 

いくは根っこは「菩薩」でありながら「魔(怪物性)」を併せ持ことになった特殊な人物。作中の描写では藤木は、伊良子の内部にひそむ『目(いく)』こそを「怪物め」と吐き捨てている。※この直前、藤木は伊良子という人間を理解し、その本質を認め誇らしくさえ思っている。作品のテーマにも関わってくるが、このため御前試合での攻撃はいくへの刀の投擲という形に現れた。

 

 

<<シグルイのテーマの一面は「魔を祓い人を救う物語」という話。>>

 

人ならざる「怪物性」「魔性」は時折、瞳の描かれない白目を剥いた登場人物の姿でも描かれる。(目による表現は程度の差が大きいため、誰しもが持つ「魔性の片鱗」程度に考えていればよし)そしてそれは作中で「無明」とも呼ばれるそれそのもの。

 

無明:存在の根底にある根本的な無知。まったく知らないこと。「シグルイ」の文法においては転じて、目が見えない事。そして虎眼や社会風潮に従う盲目的な「士」たち自身の事。極めた先の怪物性の事。

 

そういった盲目の怪物たちに対立する事になったのが伊良子「無明逆流れ」とは、無明の士(さむらい)社会に対する反逆を意味する一刀だった。伊良子は自ら「魔技」を振るい、相手の「魔(無明)」を祓い、「人」として救っていく。魔人虎眼救い牛股救い藤木を救おうとしたが、最後は藤木が伊良子と三重に取り憑く「魔」を祓う形となった。

 

また、峻安も伊良子に対し「あれは魔の物 この世に居てはならぬ物…」と言及しているが、同時にこの動機については「この巨漢が清玄を葬ろうと決意したのは師の仇討ちという理由に非ず」と説明がなされている。峻安は師の仇討ちではなく、伊良子の魔を祓おうとしていたのだ。


●三重が死に体の虎眼の前にしおらしく出てきてたのに仇討ち願を届け出る心情がよくわからん

┗三重の前で殺したのが「人」である虎眼だったから。

 

 

<<三重側と伊良子側の見解の相違>>

 

伊良子は「虎眼が乱心して」いくに危害を与えたためやむなく殺害に至った。という表明をしている(※ここらへんは主に目撃者として金岡が証言)のに対して三重は「虎眼は乱心しておらず」、乱暴を働いたのもきちんと理由がある(=虎眼は物事の分別がつく状態であった。)と異議を呈している

 

伊良子は「魔」である虎眼を成敗したが、三重が見たのは娘の美しさに感涙する父「人」である虎眼が殺される場面だったのだ。


上記までの項目はいささか抽象的であるため補記がてら。といいつつ一番大切なところ。

 

 

<<「シグルイ」が描き続けたもう一面のテーマ>>

 

御前試合。伊良子のまぶしすぎる「逆光」に藤木は正面から挑むことを避け、回り込んで「怪物(いく)」を攻撃し、伊良子に取り憑く「魔」を祓わんとする。

 

作中で「魔技」と称された2つの技、「流れ星」そして「無明逆流れ」

藤木は「魔技」である「流れ星」を用いずに伊良子を倒す※。藤木によって「魔(いく)」を祓われ、やっと瞳に濃く色を浮かび上がらせ、"無明"から解き放たれ死んだ伊良子。だからこそ、藤木は誇るべき「人」である伊良子の斬首に強い拒否感を覚える

※藤木には片腕が無いため「流れ星」の発動が出来ない状態である事も、仇討ち試合において伊良子が「魔」を祓った(片腕を斬り落とした)結果とも捉えられる。

 

 

<<藤木の「人」としての産まれなおし>>

 

伊良子によって腕を切り落とされ、魔技「流れ星」を奪われた藤木。しかし藤木の「魔」の残りはまた別のタイミングで伊良子に祓われる事になる。それが【第七十三景】から【第七十五景】までの3つのエピソードだ。

これらのエピソードの内容をざっくりと記すと、

昏睡状態に陥り医者からも見放された藤木に対し、伊良子が狒々の霜を届けに来る。藤木は無意識に狒々の霜を貪り十三日ぶりに復活。「蟇肌」を用いた試しの帰路、藤木と三重は桜吹雪の中で誓い合い、三重は失った藤木の左手が指に触れるのを感じ、そっと握り返す。といった、死の淵から蘇った藤木が細胞から新しく生まれ変わったかのように溌溂と生きる様子が印象的な部分。

そしてこれらエピソードの最初にあるのは、伊良子が藤木にトドメを刺す。という藤木が見ている夢の部分だ。

この後、伊良子により狒々の霜が届けられ藤木が復活。

"復活した藤木源之助は 全ての細胞を新たなものに入れ替えたかのように 瑞々しい生命力を放出していた"

 

まさにこの時、藤木は残る「魔」を夢の中で伊良子に殺される事によって祓われ、「人」として新しく産まれなおしたのである。

 

産まれなおした藤木の左手を感じる三重。今まで存在しなかった左手が、確かに生まれているのである。

 

"戦うために生まれたの(魔)ではない。"

"戦って結ばれるために生まれた(人)"のだ。

 

そして御前試合。

あの日生まれた「三匹の怪物」のうち、一匹は先んじて「人」となり、

一匹は死に、一匹は伊良子の死により「魔」を完全に祓われる。

 

が、藤木は「士(父、虎眼)」の呪縛によって伊良子の首を切断する。「自己の細胞が次々に死滅し」「赤子の如く」伊良子の首を落とした。先刻産まれなおした「人」としての藤木はこのとき死に、藤木源之助は再び「魔」の赤子として産まれなおしたのだ。

故に試合場を後にする藤木源之助は、入場した時とは別人なのである。

 

菩薩・いくを得た伊良子は「魔」でありながら誇り高い人間性を保つ事ができた。そして菩薩を奪われた虎眼流は、父・虎眼の「魔」に染まり続ける道から逃れる事が出来ずにいた。「ある瞬間」まで。

 

 

<<シグルイのテーマの一面は「魔を祓い人を救う物語」である。

そしてこのテーマのもう一面は、

「その時になって初めて自らの"偽り"を解く」という話。>>

 

「シグルイ」の登場人物たちは人と魔の間にギリギリのバランスで立っている。その「人と魔の間」の中でもダークサイド、「魔」寄りなのが"無明"と呼ばれる闇。それはとても強い。だが、"偽り"なのである。

 

「シグルイ」が描き続けたテーマ。それは。

 

 

 

 

 

“何事も 皆偽りの 世の中に 死ぬるばかりぞ 誠なりける”

 

 

 

偽る事でしか生きられない社会だから、死ぬときになって初めて、自分の一番正直な気持ちに気づいて、認めて、死んでゆく。

 

孕石は父を想い

虎眼は三重に。

藤木は仇討ちに敗れた死の淵で。

牛股はふくに。

伊良子は母に。

それぞれの最も大切に想っていた人を嘘偽りなく想って斃れる。

 

 

そして三重は…

 

●三重の心は誰のもの?

┗藤木源之助。

 

三重の自害は「信じた藤木が結局傀儡だったことに絶望したから」と捉えられ、それも正解のひとつ。

だが、ここではより深堀って愛した『人』である藤木死んだからと結論付けたい。

三重は『人』である父・虎眼と、『人』である夫・藤木を目の前で殺されたのだ。

故に「シグルイ」のラストシーンは、死にゆく三重の心根だ。

 

三重は藤木の腕が失くとも、手と手を繋いで風や木のにおいを感じながら歩み、藤木を追って死んだのだ。

いくが伊良子と手と手を繋いで暗闇の雑木林の中を歩み、金色の羚羊を見て、伊良子を追って死んだ様に。

 

同じなんだ おまえも己も。

 


【まとめ】

・シグルイは最初から最後まで同じテーマを描き続けているよ。それが「“何事も 皆偽りの 世の中に 死ぬるばかりぞ 誠なりける”」だよ。

・「魔」に落ちたとしても、死ぬときになったら「人」として嘘偽りない気持ちで死ねるよ。

・蝉=士だよ。

・乳首プギュは「母との決別」だよ。(でも牛股は結局のところ女とも母とも決別できてないだろお前って全部見えてる系男子の伊良子に詰められてたよ。)

・三重はちゃんと藤木の事が好きだったよ。ラストシーンがその証拠だよ。

・三重は「人」が大好きだよ。でも皆自分を偽って「魔」にならざるを得ない社会だったよ。

・三重が伊良子に反論するように仇討ち願いを届け出たのは「『人』である父・虎眼を殺されたから」だよ。

・三重が自害したのは「『人』である夫・藤木を殺されたから」だよ。


 

Special Thanks 伊良子清玄のコーナー

 

人々の表面的な姿の一切が見えなくなったからこそ、人が偽り死ぬまで隠し続けるものが見えるようになった伊良子清玄。魔を祓い人を救う、「血の通うたまことの殿御」であった。たぶん体癖8種。体癖8種をよろしくおねがいします。

①物事を極めた先に「無明(魔)」がある事への言及

②弟子へ正直な気持ちを想って死ぬ

という「シグルイ」の表裏一体のテーマを短い出番の中で両方こなした方の伊良子清玄(医師)にも特別の感謝を。


その他自分の中で未消化気味な部分

 

・御前試合、忠長の前で一瞬腕が生える藤木

単に作画ミスor木刀に念じれば分身できる(ざっくり)藤木のことなので、そのオーラ的なアレで一瞬だけ周りの目すらも欺いた(たぶん作画ミスでいいと思う)

 

・「流刑小屋だなまるで」ブラザーズの生首

┗三重に命じられでもしなければ藤木が首を斬る理由がない/藤木らしくもない斬り方のため斬首したのは「斬首が上手い」と前評判が固められている孕石(あの二人は「私用(虎眼流の二人が住んでいる場所見つける)」のために孕石の雇った密用密偵で、立場上あまりにもアレな「私用」のため口封じとして殺害)or伊良子の首を落とす際に藤木が斬首の用法を心得ているため、どこかのタイミングでその経験があると考えたら流刑小屋兄弟を首を斬ったのは藤木

あるいはその両方、雇い主である孕石が討ち取られた&自らの「恩返し」のために藤木を襲撃→あっさり藤木に斬られ死亡という流れ?

      

・蛇平四郎が鴨を手に入れた手段

┗Y字型の棒網を投げるアレで取ったのかな?指ほとんどないけど…もしかしたら買ってきた鴨で、「虎眼流のだんなには随分世話になった同士ですからねぇ…へっへっへw安くしときやすぜぇ…へっへっへw」みたいな『伊達割』みたいなのがあったのかも。とにかく蛇平四郎は伊達に二度も伊達にされていないナイスガイでした。フキダシやコマ割りまで使って(おそらくショタ藤木に真剣抜かれた回で伊達にされた)右耳を巧みに隠す意味ある…??


可哀想になぁ、読んでたって辛いだろ? 楽にしてやるよ。

バッソニャン、読解力ってのあるつもりだからさ

ハッハッハッハッ!

 

ホッドイデグレェエェエェエエエエエ